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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ13
文久年間の雑録

文久年間(1861-64)は皇女和宮の婚姻、伏見寺田屋事件、生麦事件、薩英戦争など幕末の慌しさが加わってきた時代である。桑名藩主松平定敬の動きについては、このシリーズのNo.3「東奔西走の桑名藩主松平定敬」で述べたので、ここでは藩主以外の動きを色々と列記してみる。

1.堤普請
文久元(1861)年正月11日付の「桑名藩御触留」によると、幕府の役人は堤普請のため桑名に滞在していることを書いている。普請の委しい内容は不詳。

2.和宮の警備
  皇女和宮は政略のため、14代将軍徳川家茂に嫁ぐため、文久元年10月から11月にかけて、京都から中仙道を通って江戸へ行ったが、道中の人足として細久手、御嵩、伏見、加納、美江寺宿へ桑名藩の村々からも動員された(大塚家文書)。
 一方、桑名藩には道中警備を幕府から命じられた。桑名藩江戸屋敷に在勤していた沢佐五右衛門は同年11月4日早朝に桑名藩士34人と共に江戸屋敷を発ち、同日は大宮、5日は鴻巣、6日は本庄に泊った。本庄郊外の沼和田村で滞在した。和宮一行が通りすぎた後を警備するため、10日に本庄を発ち、17日に江戸屋敷に帰着した(沢家日記)。

3.北大手水門修理
文久2年3月12日から北大手水門の修理を行うので、通行止めとなっている。このことから推測するに、洪水・高潮を防ぐため、北大手橋の下に水門があって揖斐(いび)−川が増水した場合に、水が町中へ流れ込まないように堰き止める水門があったようだ。この工事は同月21日には終了して通行可能になった(桑名藩御触留)。

4.奥平八郎右衛門の死去
  奥平八郎右衛門貞脩は桑名藩家老であるが、文久2年6月3日に東海道藤枝宿で死亡した(桑名藩御触留)。彼は前年の10月に江戸屋敷に居ることは確認されるので、桑名へ帰る道中で急死したものと思われる。この奥平家は桑名藩3代目藩主の松平定勝の妻である奥平氏の一統である。久松松平家に家老として代々仕えた。同年閏8月21日には相続人の奥平ォ之輔が家老となっている(桑名藩御触留)。ォ之輔は久徳隼人の次男で養子として奥平家へ入った。貞脩の墓は長寿院にあり、没年月日は「文久2年6月27日」とあり、「桑名藩御触留」とは違っている。旅先で亡くなった日と桑名に戻って埋葬した日とのずれかも知れない。
  なお、桑名城内に住み、その屋敷地は奥平屋敷と言われる。現在は跡地に野外ステージがあり、「奥平屋敷由縁の記」石碑が立っているが、その説明内容は奥平屋敷の説明としては誤解を招きやすい記述である。

5.改革
  文久2年閏8月に幕府では種々の改革を打ち出して、規制を緩和した。その一つに大名の妻子が江戸に留まる規制も緩和され、同年11月3日には桑名藩の前藩主夫人の珠光院貞姫と娘の初姫・高姫は桑名へ向けて江戸を発っている(沢家日記)。
  幕府の改革に応じて、桑名藩でも同年9月に改革を打ち出した。その内容は多岐にわたるが、例えば供人を連れる場合でも供人を省略して良い。

   保養のため出掛ける場合は30日以内なら願いを出さずとも、届だけで良い。
   歳暮御祝儀は廃止のこと。
   寺社代参の場合は平服で出掛けて、先方に着いてから上下に着替えても良い。
   親類への同居は願いも届けも出さずとも良い。

 などであり、衣服は流行を追うのでなく、武士らしく質素にすること。また妻子も同様であり、妻子の服装が華美になるのは家内取締りが不十分であって武士の恥である。
  また役職手当を当分の間は中止して、経費支出を抑えることにする(桑名藩御触留)。
  文久3年3月には江戸屋敷に住んでいる家族は勝手次第に桑名へ戻っても良いことになり、上述の沢家では父親の範輔ら家族が同年9月13日に江戸築地屋敷を発ち、東海道を通り、同月24日に桑名に着いている(沢家日記)。当主の沢佐五右衛門は一同を桑名まで送り届けて、再び江戸へ行き、単身赴任したようだ(沢家日記)。

文久4年は2月19日までであり、2月20日から元治と年号が改まるが、元治元年から桑名藩は幕末の渦中に巻き込まれることになる。

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