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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ12
続・幕末の災害

前回に万延元(1860)年5月11日の暴風雨について、武士屋敷の被害は不明と書いたが、被害状況の記録(「魁堂雑記」巻六、鎮国守国神社所蔵)を見つけたので紹介する。

この日は朝から小雨で、風も少しあった。ところが昼前から激しい風雨となり午後3時半ころにピークとなった。4時ころには海岸の堤が所々で切れてしまった。新屋敷や伊賀町近辺の堤も切れて、水が押寄せて来た。そのころには風も止んだが、水はますます入ってきて、柳原では屋根の軒まで浸水した。新屋敷でもほぼ同じ。外堀あたりでは襖の引き手ほど、内堀の一部や元赤須賀では床上、丸ノ内(三之丸)では床下に迫った。城近辺では舟にて往来した。

寺町・矢田川原東は床上だが、矢田川原西は水は来たらず。東矢田町から七曲御門(現日進小学校付近)まで床下まで。伝馬町・京町では畳を上げ、東西一色町とも畳を上げた。宮通・春日神社付近は水は来たらず。

この浸水のため、武士たちは寺院へ避難し、11日から25日まで炊き出しが行われた。炊き出しをした人数は
法盛寺 御書院格  39人 舞台格以下  59人 計 98人 他にも8軒分あり
光明寺 御書院格  62人 舞台格以下   2人 計 64人
光徳寺 御書院格  83人 舞台格以下  51人 計134人
十念寺 御書院格  98人 舞台格以下   3人 計101人
最勝寺 御書院格  17人 舞台格以下   0人 計 17人
顕本寺 御書院格  40人 舞台格以下   5人 計 45人
真如寺 御書院格   0人 舞台格以下 133人 計133人
常信寺 御書院格   0人 舞台格以下  47人 計 47人
本統寺 御書院格  68人 舞台格以下   0人 計 68人 他にも3軒分あり
長寿院 御書院格  14人 舞台格以下   0人 計 14人
りん崇寺 御書院格  0人 舞台格以下  17人 計 17人
仏眼院 御書院格   0人 舞台格以下  16人 計 16人

総計 781人(上記の人数を合計すると754人となるが他の11軒分を足した人数と思われる。なお、桑名藩士の階級は御書院格と舞台格以下とに分かれていた)

この他にも炊き出し人数が不明の分も、また自宅二階や親戚に避難している分もある。

この時の浸水については桑名藩士で外堀に住んでいた加太邦憲は『自歴譜』(岩波文庫)では6月7日のことと書いているが、他の史料とも付き合わせると、5月11日である。

加太の記述によれば、赤須賀の堤防が2か所切れ、城の外郭も2か所切れた。加太宅では床上3尺(約90p)ほどまで浸水した。翌朝までに半分に減ったが、完全に水が退くまでに1週間かかった。加太の一家は父を自宅に残して法盛寺に避難した。避難の2,3時間後には炊き出しを行い、飲料水とともに船にて配給があった。これは避難所のみならず、自宅などで待機していた藩士にも配給された。

この時には桑名藩では死者は出なかったが、田畑の損害は1万5千石となった。
藩士に対しては見舞金として、家老で10両、書院格で5両から2両2分、舞台格以下は1両から1分支給された(「桑名藩御触留」岩瀬文庫所蔵)。

この時の浸水状況を見ると、昭和34(1959)年9月26日に起きた伊勢湾台風の浸水状況とよく似ており、現在でも基本的には変わりないと思われる。また、町人の屋敷には浸水は少なかったのに、武士屋敷の浸水が大きかったことは、城下町建設の際に桑名町衆の力が強かったためと、私は思っている。

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