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連載 桑高百周年シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

桑高百周年シリーズ34
下河茂嗣(しもかわしげつぐ)校長先生(3)

下河先生は戦中・戦後の激務で、身体を蝕まれ、員弁高校長となった1952年12月に名古屋大学病院に入院。翌年の53年5月に亡くなられました。享年54歳の若さです。

下河先生の3男の津一君と私は益世小学校・明正中学校・桑名高校と同級生です。53年は桑高2年生で同じクラスだったのですが、お父さんが亡くなられたことを知らぬままでした。今回、『桑高百年―三重県立桑名高等学校100周年記念誌―』編さんの過程で知りました。

戦後の下河先生の活躍の一つとして、私立桑名民生学園の創設があります。1945年8月、日本は戦争に負けました。戦時中は英語は敵性語として排除されていましたが、戦後は英語が重要になることを見通し、桑名で民間の英語教育を行うべく、下河先生は奔走されました。そして桑名の実業家・佐藤信之助氏(後のサンジルシ醸造社長)の支援を得て、照源寺を借りて、桑名英学塾を立ち上げました。これが桑名民生学園となり、さらに現在の海星高等学校(四日市市)に発展しました。もっとも公立学校長である下河先生は表に立たず、この学園を裏で支えました。

下河先生は戦前から英語教育に関する著作を多く書いておられますが、戦後になると『三位一体初級綜合英語の研究』(1949年)、『英語基礎研究』(50年)、『短期完成英語基礎練習1・2』(51年)、『英文法とその問題集(入試英文法演習)』(52年)、『高校生の英作文』(52年)などなど、多忙な公務の中にもかかわらず、精力的に著わされています。地方の高校の校長ですが、全国レベルの活躍をされました。

下河先生は豊かな趣味の持ち主であった。もっとも好まれたのは囲碁であり、幅広い碁友との交際があり、また文学・音楽・講談・落語をたしなみ、交友関係を豊かに持たれ、多くの人々から親しまれました。没後に友人たちが『偲ぶ草―下河茂嗣追想録―』を東京の出版社「泰文堂」から出して、先生の遺徳を偲んでいます。

戦中・戦後の無理がなかったら、もっと長生きされ、桑名のため、日本のために活躍されたことだろうと悔やまれます。

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