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連載 桑高百周年シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

桑高百周年シリーズ26
県立桑名高女の永田加寿(かず)先生

昭和16年12月8日、日本は太平洋戦争に突入しました。戦争遂行のために、当時の日本では狂気の沙汰としか思えないような状況が次々と行われました。その一つに学生が卒業を繰り上げさせられました。専門学校の生徒も、この月に卒業となりました。東京音楽学校の生徒だった永田加寿は卒業させられ、同月末に三重県立桑名高等女学校の音楽教師として赴任しました。戦雲の垂れ込める学園でしたが、新任ほやほやの若い先生は、一輪の花を添える明るい存在でした。「お姉さん」先生として女学生たちにも人気の的になりました。顔も体もふっくらとしていて、忽ち「あんぱん」とあだ名を付けられました。柔らかなソプラノとピアノの音が学窓に響きわたりました。しかしながら、戦争が烈しくなるとともに、勉強よりも生産が優先され、女学生は学校へ行かず、工場へ通勤する有様となり、音楽の授業も無くなりました。

彼女は永田保羅・かよの長女として、大正8年に生まれました。保羅は聖公会(キリスト教の一派で、イギリスの国教)の牧師で、この頃は四日市の教会にいました。しかし、桑名の教会の牧師も兼ていて、しばしば桑名でも説教をしました。

日本がアメリカと対立するようになった時、永田保羅牧師は「日本人とアメリカ人とが戦争する理由がない」と発言し、反戦思想の持ち主としての烙印を押されました。そして特高(思想取締をする特別な高等警察)から24時間中、監視されるようになりました。

昭和20年6月16日、四日市が爆撃され、教会も焼けました。焼け出された永田一家は桑名の教会に移りましたが、ここも7月17日に空襲で焼けてしまい、市内の西方に間借りしました。

桑名の北寺町で医院を開いていた水谷健二家も焼け出されて、永田家の近くの家を借りて住むようになりました。この水谷家は7月24日の爆弾攻撃の際に防空壕が吹き飛ばされ、息子さんは生き埋めになるところを、足だけが出ていたので、助けられました。しかし母親は重傷を受けて、1カ月余に亡くなられました。

近所同士の永田家と水谷家は仲良くなり、戦争も終った、その年の暮れのクリスマスを両家が楽しく開きました。そして、夫人を亡くした水谷健二と永田加寿とが昭和22年3月15日に結婚しました。その年の5月31日付で、彼女は女学校を退職しました。しかし、その後も嘱託として勤務しました。女学校が廃止となって、新制の桑名高校が出来た際も、桑名高校で暫らくは音楽を教えました。先妻の子どもを育て、妻として、主婦として、家業の医院の助手をしながら、教師も勤め、さらには名古屋でのオペラ公演にも出演するという多彩な活動をしました。

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