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連載 桑高百周年シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

桑高百周年シリーズ16
桑名中学の水泳選手たち―近藤勇三・小出義彦・中山重正―

桑高百周年シリーズ12(かわら版2008年8月号)で私は下記のように書きました。

スポーツ面では水泳の活躍が目立ちます。桑名にはプールがありませんので、多度の仮設プールで練習し、昭和5年の東海選手権大会では近藤勇三君が自由形400米と1500米で優勝し、小出靖彦君は平泳100米と200米で優勝しています。小出君は翌年には全日本選手権大会で平泳100米と200米で4位に入賞しています。彼は東大に進み、昭和35年(1960)のローマ・オリンピックでは日本水泳競技の総監督として参加しています。

その後の調べで小出「靖彦」君でなく、小出「義彦」君の誤りでした。一字違いですが、人名ですから重大な誤りです。誠に申し訳けない次第です。

何故間違えたのか。先ず『朝日新聞』の記述が間違っていました。『朝日新聞』(昭和6年9月17日付)では「三重県水泳連盟では全日本選手権兼本年度神宮競泳大会の県代表選手を詮考中だつたが、十五日桑名中学小出靖彦君を正式に公認推薦した、同君は若武者ながら百b平泳一分十九秒八、二百b平泳二分五十七秒二の記録を持つ、海の国三重県の誇るべき選手である」。実際は「靖彦」でなく「義彦」が正しいのです。日本を代表する大新聞も活字印刷のころは、かなり誤植がありますが、これは完全な誤りです。

第2に『桑名市史』では「桑中の水泳選手桑名内堀出身の小出靖彦(東大卒)は桑中時代八百自由形の全日本ベスト・テンの三位を記録し、八高時代には連続三年全国インターハイに優勝した。戦後は日本水泳連盟の常務理事を勤め、昭和三十三年七月専務理事に選出された」とある。この記述は小出靖彦のことには間違いがないのですが、かれは桑中でなく富田中学(現・四日市高校)の出身です。

私はいずれの記述も考証せずに孫引きしてしまいましたが、『桑名市史』の誤りは何百か所あるか見当がつかないのです。このように今回も新しく発見しました。桑名市民としては誠に恥ずかしい『桑名市史』です。

日本水泳連盟では機関誌『水泳』昭和5年の創刊号からネットで公開しています。家庭のパソコンからでも簡単に閲覧・複写できます。それと同連盟発行の『水連四十年史』(昭和44年刊)によりまとめてみますと。

昭和5年8月明治神宮プールで行われた全日本水泳大会で近藤勇三(桑名中)は1500b自由形予選B組で4位になっています。おそらく決勝戦にのぞんだと思われますが、決勝は4位までには入らなかったようです。

小出義彦は昭和6年10月明治神宮プールで行われた全日本水泳大会では100b平泳決勝で4位になっています。200メートル平泳でも決勝で4位です。計時員は3位のタイムでしたが、審判員はタイムが 0.2秒遅い人を3位と認めたため、小出は4位とされました。手でストップウオッチを押す計時員と着順を目視する審判員とは別人なので、食い違いが生じたようです。

昭和7年の全国高校選手権で小出義彦(八高)は200メートル平泳で7位になっています。八高(第八高等学校=現・名古屋大学)に進学したのですから、勉学も優秀だったのでしょう。その後のことはわかりませんが、彼の墓は桑名・伝馬町の顕本寺にあります。お寺の話では昭和19年4月12日、インド・アッサム州で戦死されています。墓石の戒名も「護国院義烈日住居士」とあり、将来を嘱望されながら、惜しい命を落とされました。

小出家は勝彦・靖彦・義彦の兄弟がおり、桑名内堀に住んでいました。元は桑名藩の武士で、早くから桑名松平家に仕えました。靖彦は富田中学生として、昭和4年全日本中等学校水泳大会で800b自由形で2位になっています。のち東大を出て、安田海上火災保険に勤務していますが、昭和33年から36年に日本水泳連盟の専務理事を勤め、その間の昭和35年のローマ・オリンッピクに日本水泳選手団の団長として参加しています。

昭和10年西部中等学校大会で、桑名中学の中山重正君は100b自由形で優勝しています。200メートル自由形では準決勝で3位に入りましたが、決勝戦の成績は不明です。

当時の桑名に正式のプールはありませんでした。多度の仮設プールと揖斐川の仮設プールで練習しながら、中学生ながら桑名から全国レベルの水泳選手が輩出しました。

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