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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ36
「酒井孫八郎の大奮闘」

酒井孫八郎(以下、孫八郎と略す)については何度も書いたが、桑名城の開城の時に大活躍し、その後の桑名藩の中心人物として活躍した。慶応4(明治元=1868)年1月28日の開城以後の桑名藩は本統寺に重役たちは収容され、本統寺が藩の事務所となった。閏4月中頃には孫八郎ら重役の家族は元の住居に戻ることが許されたが、孫八郎らは本統寺に収容された状態がまだ続いた。

占領下におかれた桑名藩では何事も独自で決定することが出来ないので、占領軍である尾張・津藩との交渉が仕事の中心である。尾張・津藩からの通達を藩士に連絡すること、そして、前回も書いたように、藩士たちの生活保障の交渉である。各地の情報を集めるのも重要な仕事であり、藩士を京都、江戸・東京(7月17日に江戸は東京と改名された)、柏崎(桑名藩の飛び領地)などへ派遣している。

9月25日に明治天皇は桑名に宿泊し、翌26日に桑名を出発し、佐屋を経て熱田に着いて27日に熱田神宮を参拝し、同日は鳴海で泊っている。孫八郎は天皇を追って、27日朝に桑名川口からこっそりと乗船し、熱田で休息して、夜中に熱田を発って28日未明に鳴海へ着いた。天皇は前夜から鳴海に泊っているので、天皇側近の役人に嘆願書を出した。それは桑名藩の占領を解いてほしい願いである。そして書面では意を尽くせぬので、口頭で趣意を述べたいと書いた。天皇は28日に鳴海を発って岡崎に泊まったが、孫八郎も後を追って岡崎に達した。孫八郎は嘆願書の回答を貰うため29日未明に岡崎で役人に面会したが、回答はなく、桑名へ戻るように命じられた。同日は熱田まで戻って宿泊して、30日に桑名に帰った。

嘆願書の回答として、10月3日に尾張・津両藩を通じて触れ出された。それによると占領状態の緩和であり、藩主家族の幽閉が解かれた。また孫八郎ら重役たちも自宅へ帰ることが許された。

 しかし前藩主の松平定敬が降伏していないので、桑名藩の占領状態は解かれなかった。
そのため孫八郎は定敬を説得するために出かけることにした。勿論尾張藩の了解のもとである。11月3日午後に桑名を発って東京へ向かった。部下の生駒伝之丞が同行し、尾張藩から14人の武士たちが護衛に付き添った。

14日に東京に着き、尾張藩の屋敷に入った。東京では定敬探索の許可を得るべく交渉し、傍ら東京残留の桑名藩士たちとも会っている。29日に許可が下りたので、12月3日東京を出発、同行は生駒伝之丞と林平右衛門であり、尾張藩からの護衛3人も付き添った。一先ず横浜へ行き、横浜在留の平松屋寅吉の世話で、7日にイギリスの蒸気船ソルタン号に乗船した。外国人も含めて200人ほどが同乗した。函館は敵地のために船が入ることが出来ず、函館を横に見ながら10日に青森に着いた。寒い。

青森に駐留する新政府軍の参謀に、蝦夷地への渡航の許可願を出して、許可が認められたので、17日に青森から陸路を出発、同行は生駒伝之丞だけである。蝦夷は敵地なので、尾張藩の護衛部隊は同行しなかった。孫八郎らは吹雪の下北半島を北上し、耐え難き寒さの中を歩いたが、桑名では未だ経験したことのない大雪であった。途中で吹雪のため2晩は宿で泊まったまま動けず、やっと7日目の23日に半島の北端である大間に着いた。

24日は晴天となり、舟を頼んで冬景色の津軽海峡を渡り、同日の夜に函館に到着し、大町大津屋に宿泊した。25日に蝦夷政府の役人の取り調べを受け、大小の刀を取り上げられ、6人の番兵が付けられた。29日の大晦日(当時は太陰暦のため、この年は12月29日までであった)に新選組の隊長・土方歳三と会った。明治2年の元旦は屠蘇や雑煮が出された。同夜に刀は戻され、山之上神明社の神職宅に居る定敬に会いに行った。以後は孫八郎らは函館の町で泊り、毎日定敬のもとに通った。その一方、蝦夷政府の榎本和泉や土方歳三と会って、今後の事を協議した。

参考文献 「酒井孫八郎日記」(『維新日乘纂輯』第4巻所収)
      「松平定教家記」(国立公文書館所蔵)
      「公文録」(国立公文書館所蔵)
      「桑名藩御触留」(岩瀬文庫所蔵)
      『明治天皇紀』(吉川弘文館発行)

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