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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ33
明治天皇の通行(2)

明治元(1868)年10月13日、東京に到着した天皇は同年12月8日に東京を出発したが、今回はかなり簡素化されて、往路で使った豪華な鳳輦は東京に残して、簡素な板輿をつかった。お供の人数も半分であった。東海道を上り、同月17日朝に知立を出発し、熱田の尾張藩西浜御殿で昼食・宿泊した。

18日は天候がはっきりしなかったが、熱田を出発し、佐屋路を進んだ。二女子村の御用所、万場宿の溝口本陣、埋田の御用所で小休止した。途中の砂子川・万場川には舟橋を架けた。舟橋とは舟を並べて、その上に板を並べて即席の橋としたものである。往路は橋幅が12尺あったが、今回は簡単な輿になったので、9尺の橋幅に縮められた。佐屋宿の加藤本陣に到着して昼食した。

午後は「3里の渡し」を通り、桑名宿で宿泊の予定だったが、激しい風が吹いて危険となって、舟が出せなくなった。そのため急いで予定変更となり、佐屋泊りとなった。一般の民家や付近の村々へも宿泊を割り当てられた。夕食の準備、布団の手配など、悪天候の中、佐屋宿では大混雑となった。集めた布団は5,000枚にもなった。極寒の時期である。1人で上下3枚づつとすると、約1700人分である。当時の記録では「何とも紙に書き尽くせぬ大混雑で、必至になって宿割りした」と記している。佐屋宿で、これだけの多人数が泊ることはなかったし、急な予定変更であって、佐屋宿の人たちの慌てぶりが想像される。「天皇様が泊られるのは光栄なことだけれども、有難迷惑だ」と言っている。

翌19日は晴天となり、夜明け前に乗船して、「3里の渡し」を暗いうちに通り、夜明け頃に桑名に到着した。この日に使用された舟は306隻であった。桑名の大塚本陣で小休止したのち、急いで出発して、小向・東富田で小休止し、当初の予定通りに昼には四日市に着いて、黒川本陣で昼食した。当日の夜は関宿で泊って、22日に京都に着いた。

翌年の明治2年3月7日に天皇は京都を出発して、伊勢神宮を参拝した。歴代の天皇で初めての神宮参拝である。神宮参拝後は3月14日に津を出発して、四日市宿黒川本陣で宿泊した。当日は四日市での宿泊は4200人もあり、その布団は12,600枚(1人3枚)が必要であった。

15日は四日市を出発して、桑名の大塚本陣で宿泊した。16日に桑名から乗船し、前ヶ須新田(のちの弥富)で上陸して、佐屋川堤を経て佐屋路を通って熱田で宿泊した。28日に東京に到着し、以後東京が首都となった。

首都が東京になったため、京都の皇族や公卿たちも次々と東海道を東京へ向かった。明治2年10月5日、皇后(のちの昭憲皇太后)は京都を出発し、8日に四日市の黒川本陣で宿泊。9日に桑名の大塚本陣で宿泊。実は9月28日に大塚本陣の主人が亡くなったが、穢れのあることを隠して、仏眼院でこっそりと密葬していた。10日に桑名から前ヶ須新田へ渡り、佐屋を回って熱田へ向かった。

 明治4年11月14日に佐屋路は廃止となり、翌日の15日から前ヶ須新道が開かれた。これは熱田から短距離の道である。今の国道一号線のやや南である。途中の福田と前ヶ須新田が宿場となり、前ヶ須新田が渡船場となった。桑名〜前ヶ須新田の渡しは「ふたつやの渡し」と呼ばれた。桑名〜前ヶ須新田の距離は1里20町あり、「1里の渡し」とも言われた。

明治5年3月26日に英昭皇太后は桑名の大塚本陣で宿泊し、27日に前ヶ須新田へ渡った。佐屋路は前年に廃止になっていたが、前ヶ須新道は未整備だったので、従来通りに佐屋回りで熱田へ向かった。前ヶ須新道が完成するのは4月に入ってからである。


参考資料『四日市市史』(1930年 四日市教育会)
『明治天皇紀第1』(1968年 宮内庁)
『明治天皇紀第2』(1969年 宮内庁)
『郵政百年史資料第1巻』(1960年 郵政省)
『佐屋町史史料編1』(1976年 佐屋町史編集委員会)  
「豊秋雑筆」  鎮国守国神社所蔵 
(2013.06.15)
       

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