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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ25
桑名城開け渡しまで

前回に述べましたように、慶応4(1868)正月11日、桑名藩は戦わずして、城を開け渡すことを決定しました。開け渡すための事前交渉に桑名藩総宰職の酒井孫八郎八郎が奔走します。

酒井は12日の早朝に帰宅して、定刻にまた出勤しています。その夜は午後11時ころに帰宅できて、3日間続いた徹夜勤務から解放されて自宅で寝ることができました。13日、14日も定刻に出勤し、夜には帰宅しています。15日、17日は宿直で城内での泊りです。藩主松平定敬が12日に江戸に到着した旨の連絡は16日に桑名城にもたらされました。酒井と同じ総宰職である沢采女は、定敬へ桑名の情勢を報告するため、18日に桑名を発って江戸へ向かいました。その後の沢は、最後の函館まで定敬に同行しています。

桑名藩の総宰職4人のうち、2人は大阪から江戸へ行き、沢も江戸へ行きましたので、桑名城に残っている総宰職は酒井だけとなりました。酒井は19日夜に亀山へ向かいます。20日雪がチラチラする中を朝の3時ころに亀山に着いています。彼の日記には「早駈」と書いてありますので、おそらく馬に乗って行ったと思われます。とりあえず亀山藩へ連絡したところ、桑名城を攻めるため、新政府軍の軍勢が今日は坂下宿に宿泊し、明日は亀山に来るとのことで、酒井は亀山郊外の中富田村まで戻り、そこの民家に泊まりました。

21日も雪がチラチラしていますが、酒井は亀山藩に嘆願書を提出し、亀山藩の護衛のもとで庄野宿まで戻り宿泊しました。22日も雪がちらつく天候ですが、酒井は四日市まで戻りました。ここで新政府軍からの指示を受けました。それによりますと、桑名藩の前藩主の息子の万之助と重役一同などを連れて、明日の23日夜に四日市へ来るようにとのことです。

酒井は急いで夜中を桑名へ戻り、23日朝6時ころに桑名城に到着しました。そして手配を済ませて昼ごろに少し帰宅しました。万之助ら一行は夕刻に四日市・川原町の法泉寺に到着し、夜の10時ころに新政府軍の本営に出頭しました。万之助は玄関の式台の上に座り、新政府軍の命令を受けました。

一つ 桑名城を掃除して、朝廷に引き渡すべし

一つ 武士たちはすべて寺院に入って謹慎すべし

この命令を受けてから、万之助らは法泉寺へ収容され、亀山藩の武士によって警護されました。酒井は「早駈」にて24日朝7時ころに桑名の自宅に戻りました。すぐに出勤し、城引き渡しの準備を手配しました。藩士は自宅を取り片付け、お寺へ立ち退き、家族は知り合いの家へ立ち退くこと。ただし矢田河原・新地などの藩士は自宅で謹慎すること。

25日には藩主の家族である珠光院らは菩提寺の照源寺へ立ち退きました。藩士たちも25日から26日にかけて順次立ち退き、27日朝に藩の役所も本統寺に移り、城内はすっかり開城の準備が整いました。

28日、四日市を出発した新政府軍の軍勢が次々と桑名に来ました。酒井が代表して城の鍵を引き渡して、血を見ずして城の明け渡しが終わりました。いわゆる「無血開城」です。新政府軍は本丸の東南隅の櫓に火をつけて、落城の印としました。

城を無事に引き渡して、29日の酒井は気力が抜けたのか、日記には「雨」の一文字だけ書いています。桑名の寺や神社の境内には、野営する新政府軍の武士で溢れていました。

 参考資料  『酒井孫八郎日記』 
        『復古外記』
        「諸願立留記」(仏眼院旧蔵・桑名市博物館所蔵)
        「魁堂雑記」(鎮国守国神社所蔵)
        「公文録」(国立公文書館所蔵)など

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