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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ18
国産会所と藩札

江戸時代の中頃から各藩とも財政が苦しくなり、収入を増やすために、色々と政策を実施しますが、その一つに国産会所という組織があります。国産会所は国産役所とも産物会所)とも言われる場合もありますが、領内の特定の産物を一手に買い上げたり、他国の産物を一手に仕入れたりして、一手に販売する組織です。即ち産物の専売制度ですが、その仕事を民間の特定業者に委託することが多いようです。そして業者から冥加金を藩に納めさせていました。

桑名藩での国産会所の設置は何時ころか、その組織の実態を示す資料が見当たりませたが、天保年間(1830〜44)ころには行われていたようです。天保2年に御用干か(ほしか)・〆粕が桑名湊に着いたので、船馬町の大井田屋で販売しています。御用ですから桑名藩の国産会所の仕事で、仕事を民間の商人に委託したと思われます。干かとは鰯(イワシ)の干したもの、〆粕とは油を絞った粕で、いずれも肥料になりましたが、その多くは関東・東北地方から運ばれました。その後も糠(ぬか)、ハゼの実(ローソクの原料)、綿花なども国産会所で取り扱っていました。また、京町の国産会所には蔵もあり、藩の米を預っていて、その米を入札で民間に払い下げています。

天保15年9月24日の「桑名日記」には京町国産役所を教学所にしたと記述してあります。教学所は学問所とも言われ、学校のようです。しかし実態は不明ですし、ごく一時的に使われたのかと思います。明治に書かれた『桑名郡志』には京町の東端に産物会所があって、後に町学校となったが、いつしか廃止されたと書かれています。町学校とは武士のための学校でなく、町人のための学校と思われます。

学校が廃止になって、また国産会所が復活したようです。

慶応元(1865)年ころの史料では茶・菜種油・繭・石灰・陶器が国産会所扱いとして見られます。慶応3年に萬古焼の森有節が国産陶器職取締掛に任命されています。仕事は藩内の窯業関係者の名前、窯の種類、規模、などを調べ、それに基づいて冥加金の徴収と納入などです。この時には47両1分の冥加金を藩が得ています。当時の桑名藩内の窯は57基もありましたが、品質の維持を図り、不良業者を排除することも国産陶器職取締掛の仕事の一つでした。

幕末になると各藩とも財政困難になってきたので、独自に藩札といわれる紙幣を印刷して流通させました。藩札は単なる紙切れに過ぎませんから、金や銀に交換できる事を保証しないと通用しません。そのため藩札の発行には、担保になる金銀の積立がある程度あったり、有力な商人の保証が必要でした。

桑名藩の藩札が最初に発行されましたのは、文政13(1829)年と思われますが、その時は大坂の商人の升屋平右衛門が保証しており、藩での取り扱いは御勘定所でした。使われた紙は名塩紙といわれます、しなやかでその上非常に丈夫な紙です。名塩とは現在の西宮市に属している地名です。今でも特産品として貴重な存在です。

慶応2年発行の桑名藩札は国産会所が取り扱っています。この時は前年に藩内の有力者たちから金貨を集めて基金とし、基金に見合う藩札を藩内に流通させています。藩の対外的な支払には金貨を当てました。現在で言えば、金貨は米ドルで、藩札は日本銀行の紙幣に当たります。

なお国産会所は藩内の有力な商人たちによって運営されていました。その1人が先に述べた森有節だと思われます。

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