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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ03
東奔西走の桑名藩主松平定敬

前回の最後に書いたが、桑名藩主松平定敬は文久2年(1862)に始めての「お国入り」である。7月2日に桑名城に到着。江戸を発った日付は不明だが、定敬は江戸生まれ、江戸育ちであって、初めての長旅だったと思われる。7月6日に桑名城内で「年始御祝儀」の儀式を行う予定だったが、定敬が流行麻疹に罹ったため延期され、同月20日に「年始御祝儀」が行われ、藩士たちの挨拶を受けた。養子に来てから初めて、桑名在住の藩士たちとの対面である。

翌年に将軍徳川家茂が上洛するので、将軍在洛中は京都に詰めることを命じられた。将軍は上洛の途中に桑名を通過するが、桑名での応対は重役に任せ、定敬は将軍よりも5,6日前に上洛するようにとのことであった。この年に参勤交代制の緩和があり、江戸にいた前藩主夫人(珠光院)と娘(初姫・高姫)が10月に桑名に着いた。勿論、彼女たちにとっては桑名は初めてである。
定敬は翌年の文久3年2月21日に桑名を発ち、同24日に京都へ着いた。前回に紹介した「松平越中守家系譜」では1月としているが、「桑名藩御触留」(西尾市岩瀬文庫所蔵)は2月としており、前後の記述から2月が正しい。

将軍は2月28日に桑名に着き、本統寺に泊まった。普通は本陣に泊まるのであるが、桑名宿最大の大塚本陣は嘉永7年(1854)の大地震で一部が損壊していて使えなかったらしい。将軍は3月4日に京都に着いた。しかし、イギリス軍が3カ条の要求を出して、戦争が始まる危険性が高まり、3月6日定敬は将軍側近の任務を解かれ、領地および伊勢神宮の警備を命じられた。そのため翌日に京都を発って、10日に桑名へ着いた。その後、イギリス軍が伊勢湾へ攻めてくる可能性はなくなったので、定敬は再び上洛を命じられ、5月10日桑名発、12日京都着。6月3日には将軍に従い、参内して孝明天皇に拝謁した。

6月13日、将軍は大坂港から船で江戸へ向かったので、定敬は陸路を同月20日に京都発、24日桑名着、26日桑名発、7月7日に江戸城へ登城した。国元の桑名で疲れを癒す間もない、忙しさである。

同年11月18日、江戸城本丸が火災にあい、即刻に登城しており、桑名藩江戸屋敷の消防組も消防活動に参加している。

将軍の再上洛にあたり、同年12月3日、京都での将軍側近を命じられた。将軍は船での上洛となり、それに先立ち定敬12月12日陸路を江戸発、21日桑名着、23日桑名発、28日大坂着と、今回も国元ではゆっくりできない。

翌年の文久4年(2月20日に元治と改元)1月8日、大坂で将軍を迎えた。14日将軍は船で大坂を発ち、15日に京都二条城へ着いた。定敬は陸路で大坂から京都へ着いた。一年のうち、江戸へ1回、京都へ3回の旅であって、まさしく東奔西走している。

それだけ将軍から定敬は頼りにされていたと思われる。1月27日には将軍が参内した時には定敬も付き添い、天皇に拝謁している。

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